選挙が近づいているということで、少々書いてみた。単なる戯言である。仕事中に書くのはどうかと思うが。
清潔な人は庶民の代表者ではない
自分がうすら汚れていることは自覚しているが、それが普通のことだとも思っている。世の大抵の人は何処かしら汚れているのだ。でなければ、警察は不要なわけだし、犯罪も起こるはずも無い。それが庶民なわけである。
さて、選挙というのは、その地域の代表者を選ぶ行為とも言える。ただ、この場合の代表者はその地域の偉い人、というわけではない。あらゆる議題に対して適切に判断、行動出来る人はこの人と見込んで送り出すのである。
前述の通り、庶民はうすら汚れている。立候補者も庶民の一人ではあるはずだ。それなのに清潔を主張している。主張すればするほど、それが空々しく感じてくる。スタート時点での行動が既に怪しい人を送り出す訳にはいかない。
選ぶメリットがそれしかないの?
庶民の中に清潔な人が居るか?という問いはとりあえず棚に上げておく。その前提で考えてみる。
汚職事件が起こる度に清潔アピール合戦が始まるが、考えてみたら議員が清潔になったところで何かメリットがあるのだろうか?とよく思う。
もちろん人が苦労している中で、不正に利益を上げるような輩を見るのは腹が立つのは事実ではあるが、それを摘発するのは警察の仕事である。
議員の懐具合が寂しくなったところでこちらの財布の中身が増えるわけでもない。景気が良くなるわけでもない。税金が安くなるわけでもない。汚職が無くなって、さて何が生まれるのだろうか?
清潔をアピールする人は、大抵自分は清潔だと主張するが、それまでである。その先に何があるのか? 清潔の冠を取ったら他の候補と同じなのであれば、選ぶ意義は何処にあるのか?
また、清潔だったとしても、あくまでもその時点の話である。当選後も続く保障もない。単に業界に対して無関係だっただけの話かもしれない。もしくは、何の影響力も持たない人なのかもしれない。
清潔をアピールするほど、自らの力の無さ、影響力の無さを宣伝しているようにもみえるのである。
清潔な人は庶民を理解できるのか?
真の意味で清潔な人が居るとすれば、それは自分に厳しい人だと思う。傍目から見ると人格者であるだろう。ただ、そういう人が清潔を口にしたとしたらこう思うのだ。「出来る人は出来ない人の気持ちを理解できるのだろうか?」、と。
自分に厳しい人は、他人にも厳しい。警察など取り締まる機関の人間としては相応しいとは思うが、それが法律を制定できる議員となると話は別だ。
自分では守れて当然と考えているかもしれないが、その当然が出来ない人が少なからずいる。そのため、効果が出ない。そうなると締め付けがきつくなり、益々守れなくなっていく。守れているように見えてもそれは形骸化しているだけだ。
清潔な人は汚れを嫌う。そして庶民はうすら汚れている。それが庶民の本質にも関わらず、それを正そうとする。世の中を真っ白に染めようとするその行為は全体主義に他ならない。そんな世の中は嫌だ。と、少々行き過ぎたが、清潔という言葉が連呼される程、こういう状況を思い浮かべるのである。
庶民は庶民。そう考えてほどほどの人を送りだすぐらいでちょうどいい。