Jの衝動書き日記

さらりーまんSEの日記でございます。

それは檻か鎖かの違い

例によって、ただの戯言ネタである。昼食を取っている時、大体こんなことを考えては忘れている。今日は幸いな事に頭に残っているから書いてみた。

よく日本と米国の法律上の違いという題目で目にする記述がある。かたや米国は、やってはいけないことを法律で規定する。一方日本は、やっていい事を法律で規定する、と。なので米国は自由な発想が出来き、日本は横並びになりがちなのだ、云々。米国の実際の事情は知らないが、日本に関しては、確かに規範が色々多い気はする。○○基準を遵守すること、というのはよく見かける。

この違いを檻の中で生活するか、鎖を付けて生活するか、の違いで考えたら案外しっくり来た。

米国人は猛獣である。というのは言いすぎだが、人種のるつぼである事は確かだ。人をひと括りには出来ないので、ほっておくと何をやらかすかわからない。だから、それを縛り、鎖でつなぎ止めるために法律を作る。何がOKなのかを線引きすることは難しいが、駄目であることを線引きするのは簡単であるからだ。

日本人は大人しい。実際はどうかはわからないが、割と均一的であることは確かだ。そのため傾向も読みやすい。ならばひと括りに出来る檻に入れたが監視はしやすい。檻の範囲が法が許す規定、という感じである。猛獣ではないので、檻の中で共食いをする心配も低い。

さて、檻の生活と鎖の生活。どちらを望むのであろうか。

鎖の生活。鎖の範囲外の行動は出来ないが、それが許す範囲ならば何処へでも行ける。壁は無いので周りが開けている。規制緩和で鎖が緩むか、一部無くなれば行ける場所はぐっと増える。だが、自分を守ってくれるものもまた無いので、自分で身を守っていく必要はある。

檻の生活。檻である故に頑丈である。その檻にいる限りは、その中の規定を守っている限りは保障される。檻の外には出られないが、その中は自由である。規制緩和で別の檻への入り口がゆるくなることも、檻が広くなることもある。ただ、檻は檻。何処に行くにも壁が必ずつきまとう。

どちらにしろ、それを管理する存在はいるけどね、などと考えながら蕎麦セットをすすっていた。